《2003.07》
 間隙の夏(今年も新潟へ) 

丘の上に見えるのがキャンプ場のコテージ
 これまであまり海水浴なんてことを考えなかった我が家(というより父ちゃん)ですが、昨年新潟に行ったらまんざらでもなく、今年も行ってみようと思っていたのです。とはいえ昨年みたいに豪勢な旅行はできないので、民宿なんかはどうだろうなぁと、いろいろあたっていたのですね。でも、夏休み中って割増料金になったりしてコストパフォーマンスがあまりよくないのですねぇ。お魚が特別美味しくなる季節でもないのにさ。
 母ちゃんはキャンプ場でもいいよと妥協してきたのですが、実は海岸のキャンプって父ちゃんが嫌いなんですね。潮風で肌がベタつくし、注意していてもテント内に砂が入ってきてシュラフや衣類がジャリジャリになるしね。そうだ、バンガローっていう手があったな。あれもジメジメ湿っぽいイメージだけど、最近は結構明るくて綺麗なものを用意したキャンプ場もあるし、バンガローと呼ばずにコテージと称して小型の貸し別荘みたいなものもあるからね。

 そういうことを踏まえていろいろ探しておりましたら、『和島オートキャンプ場』というのがヒットしました。海を臨む高台にあって、冷房つきのバンガロー・・・お、なかなかいいじゃん、と思うのはみな同じ。予約受付開始日に電話したらなかなかつながらず、ようやくつながった時には冷房つきのバンガローも電源つきのA区画もいっぱいでありました。いちおうB区画ってことで予約だけはしておいたけど、キャンセルがでたからと自動的に繰り上げ当選ということは無いそうで、頃合いを見計らって「キャンセル出てますか?」と問い合わせなければならないみたいです・・・7月になって役場のウェブサイトに予約状況が表示されるようになったのを見たら、ちょっとキャンセルは絶望的な状況だということを感じました。
 しかし、海岸ではなく高台というので、あまりバンガローにこだわることもないのかな。インターネットで検索をかけると、GWの『あづま森林公園』とは違って利用者のレポートが載ったサイトも割と多くあり、最初に見たサイトこそ「悪かった」という評価だったけど、あとは概ね好評なので期待が高まってきました。ちょっと驚いたのが、見つけたサイトの中にひらがサンのレポートがあったこと。1998年の7月にFCAMPのオフが新潟県の安塚町で開催されたときに一緒だったけど、その時ひらがファミリーはここに泊まって海水浴を楽しんでから安塚に向かっていたのでした。

 ところで、気になるのが天気。今年はなかなか梅雨が明けようとはしない。そもそも7月26日(子どもが夏休みに入って2回目の週末)を狙っている理由のひとつとして「梅雨明けが20日頃だろうから、そのあと一週間くらいは好天になる」というのがあるからなんですね。だけど今年は雨が多い。7月20日の海の日に、子どもたちが通っている学童保育所のキャンプがあったけど、これも雨が断続的に降ったからなぁ・・・荷物の積み込みや食事の支度、キャンファイアーなどイベントの時だけは不思議とやんでくれて、最後にキャンプ場を離れたとたんに土砂降り。深谷に帰ってきて荷物を降ろすときに初めて日が照ってくるという「天気に恵まれた」キャンプだったっけ。
 出発前夜、梅雨の末期を思わせる強い雨が降っていたけど、この雨がやんだ向こうに夏空が待っているような気圧配置ではありませんでした。

 そしていよいよ、その朝がやって来ました。天気は・・・晴れ! 昨夜のうちに空の水を使い果たしたのか青空が広がっているではありませんか。意気揚々と荷物を積み込んで出発です。たぶん大丈夫だろうとは思うけど、八風山トンネルの渋滞が怖いからね。
 ん? 八風山トンネル(軽井沢ICと佐久ICの間で、渋滞の名所)?? 目的地の和島ってのは寺泊の隣です。関越道を使って行くのが常道です。でもね、今回はドライブも楽しんでみようと上信越道を経由して上越経由で行くつもりなんですよ。佐久平・善光寺平の信州の風景、妙高あたりの信越国境の風景、そして日本海に沿って走るというドライブをね。関越道は5月に六日町まで往復したばかりだし。
 たしかに遠回りなんですが、高速料金は変わらないんです。と言うよりは、

出発ICから到着ICまでの距離が、最短ルートの距離に比べて2倍以内の場合→最も安いルートの料金になります(ただし、事故などの通行止めにより乗り継がれる場合は、この限りではありません)2倍を超える場合→ご利用になるルートの料金になります
という計算ルールがあるんですよ。この「2倍」ってのがミソでね。調子に乗って長野道・中央道と経由して米原から北陸道を走ってくると、それは実際に走った区間の料金を払いなさいってことなんですね。そういうわけでいつもなら高速料金を節約するため吉井ICまで行くのだけど、今回は逆に手前の本庄児玉ICから乗るほうが節約になるんですね。そして上越ICを過ぎると、先へ行くほど安くなる・・・。

竹輪で作った『六文銭』、松代は真田家の城下町
 心配した八風山トンネルも、天候不順で行楽客の出足が鈍いのか、軽井沢ICを過ぎたらクルマが減って難なくクリア。ところが、信州に入ったら空が曇ってきた。スッキリしない空の下を長野に向かって進む・・・んだけど、高速道路ができる前だと上田から長野までは千曲川に沿って走るか、真田から地蔵峠を越えて行くというルートだった。どちらも空を見ながら走っていたので、このトンネル続きの高速道路はどうも長野に向かっているという実感が湧いてこないですねぇ。なんて言っているうちにトンネルを抜けて更埴の『あんずの里』だ。おっと、ここだって自分の記憶では平地の中だと思っていたんだけどなぁ。
 せっかく信州を通るのだから美味しい蕎麦を食べてゆきたい。といっても高速道路から降りるわけにはいかない(降りるとそこで一旦料金を精算しなければならない)ので、事前に調べたところでは松代PAの蕎麦が美味しいとのこと。休憩を兼ねて立ち寄ったけど、まぁ他のPAなどの立ち食い蕎麦よりは美味しいかな。それよりもここでテレビを見て東北地方で大きな地震があったことを知りました。東北にも友人がいるのでちょっと気になったけど、今ここで何かをしてあげられるわけでもないしなぁ。と、無責任に蕎麦を食べながらニュースに接していたこの場所が、数日後には大ニュースの舞台になるのでした・・・我が家が今回の旅行を終えて家に帰り着いた同じ頃、このPAでバスジャック犯の逮捕という劇的な事件があったのです。もちろんこのときは何の予兆もありません。

 腹が落ち着いたところで信越国境に向かってスタート。曇り空の下ではちょいと気勢があがりませんなぁ。高速道路ができる前に何度か小布施などにも来ているのだけど、車窓からの風景はちっとも当時の記憶を呼び起こしてはくれません。そういえば颯が1歳の夏、能登半島に行ったことがあったな。夜中の3時に関越道が本庄児玉ICの手前から大渋滞。これじゃぁ能登どころか長岡にも着けないと、藤岡の分岐で当時は佐久までしか開通していなかった上信越道に入り、R18を長野まで来たけれど、そこから先がまた渋滞。夜が明けてジリジリ照りつける太陽と寝不足でフラフラしながら、そしてクルマはノロノロと上越市まで走っていったっけ・・・という思い出がダブってくるような景色も出てきません。初めての道を走って新潟まで行ってみようと遠回りしたのに、今ひとつパッとしないトンネルだらけの山の中を走って行くのですね。ちょっと拍子抜け。
 いや、ちょっとどころではないアテ外れがありました。父ちゃんは何故か黒姫野尻湖PAからは野尻湖が見えると思い込んでいたのです。信濃町の観光パンフレットなんかに、コスモスと湖の写真がよく載っていて、コスモスは季節が違うとしても、あんな風景が高速道路で休憩しながら見られると思い込んでいたのです。ところが実際には、林に囲まれた寂しげなPAで、停まっているクルマも少なく、若い男性がバドミントンで遊んでいるのが見えたので、邪魔しちゃ悪いなとそのまま通過してしまいました。これだったら小布施PAで停まったほうが良かった。あそこはハイウェイオアシスになっていて、クルマをPAに置いたまま人間は高速道路の外に出られたのに・・・そしてそこにはスタンプラリー実施中の道の駅があったのでした。(後で気付いたんだけど)

どちらが我が家のクルマでしょう?(米山)
 信濃町を過ぎると、空はますます曇ってきて、ポツリと窓に水滴が落ち始めました。
「参ったなぁ、雨だ」
 手前の三水村あたりから母ちゃんと結衣は眠っていて、静かな車内にカーステレオから坂庭省悟さんが元気に『松原第七中学校校歌』を歌っている声がむなしく聞こえてきます。クルマは県境を越え、妙高高原町から中郷村へと緩やかに坂を下ってゆきます。本当はこのあたり一帯は高原リゾートなんだろうけど、この霧混じりの雨では遠くの景色がよく判らない。山を越えたら劇的に天気が変わるかと思っていたのですが、緩やかに下っているのでどこまでが山でどこからが平野なのか、判らないうちに上越の分岐までやって来ました。少しは空が明るくなってきたかなぁ。
 さて、ここから北陸道です。日本海に沿って進むわけですが、上越はまだ市街地の南側を走るので海が近いというよりは、単に大きな町に着いたなぁという感想ですね。
 柿崎あたりからようやく海のそばに来たという実感が湧いてきます。母ちゃんたちも目を覚まし、まだ霧雨みたいなのが降ってはいるけど、ここまで来てしまったのだから楽しめるだけ楽しもうという気合が入ってきたところで米山SA、ちょうどお昼なのでここで休憩です。うん、ここは9年前の能登の帰りに立ち寄ったところ。建物裏の小さな広場から見る日本海に、あの酷暑の夏の記憶がよみがえりました・・・あの時はどこのSAでも自動販売機のジュースは「売り切れ」または「今入れたばかり」で、冷たい飲み物は手に入れることができなかったっけ。今日は霧雨の中でちょっと肌寒い。
元来はトルコの食べ物らしい
 松代で蕎麦を食べたり、そのあとただクルマに乗っていただけのせいか特に空腹ということも無く、ジュースやスナックをつまむ程度で終らせてしまったのですが、ここで売られていた『サバサンド』というものが???でした。お腹にもたれそうなので写真と説明を見ただけでしたが、ここでご報告するためにも食すればよかったかなぁ。

 相変わらず霧雨みたいなのは降っているけど、日本海の沖では雲の切れ間が出はじめていました。このあとは晴れてくるでしょう。そして、ここからは先に進めば進むほど高速料金が安くなるのです。気分がウキウキしてきます。
 道路脇の標識などに「柏崎」やら「刈羽」という地名が出ているのを見つけ、颯が「拉致された人がいるところだね」「今、原子炉が止まっているところだ」などと言ってきます。ふーん、ふだん自分の興味あることばかりしかしゃべらないようだけど、ちゃんとニュースは耳に残っているんだ。でも、果たしてこいつの頭の中ではどういう理解をしているのやら。
 と思うまもなく西山IC、ここで高速道路を降りることになります。料金所を出るとすぐに四つ角、見たところメイン道路は直進っぽいけど、カーナビは右折を指示。この付近にある道の駅『西山ふるさと公苑』を経由地としてセットしてあったので、お告げにしたがって右に行ったのですが、それらしい施設や看板も見当たらないうちに、いつのまにか画面上では道の駅を通り過ぎているではないですか。変だな、引き返してみるかと細い脇道に入ったら「角さんの食堂」という小さな案内看板が立っていて、ピンとひらめくものがあったので、それに従って細い道を丘の上に登って行ったら、だだっ広い駐車場のようなところに出て、それがつまり目的地の道の駅でした。道の駅と言っても、丘の上に駐車場があって、それを囲んでトイレや公園や資料館、食堂が建っていて、そこを道の駅として認定させちゃったという感じですね。インターを出て直進しても、やっぱりここへはどこかで右折してこなければならなかったみたいです。
中華庭園は改修中で入れなかった
 しかしまぁ、いきなり目の前に中華庭園が現れて、そこには孫悟空などお馴染みの西遊記のキャラクターの像があったりして新潟の田舎町との関連が判らなかったのですが、この町と西遊記の作者の出身地、中国の楚州区が友好姉妹都市ということらしいです。ということは隣接する郷土資料館で判りました。この資料館がなかなか良くできていてね、トイレ休憩くらいのつもりで立ち寄ったのでしたが、展示や映画(偏光メガネをかけると飛び出して見えるというヤツ)を見たりして結構楽しめました。しかし、我が家以外に訪れる人がほとんど無かったというのは、ある意味では贅沢ですが、別の意味では無駄なものを作ったなぁという気もしますね。これといった産業の無い田舎では「活用する」ことよりも「作る」ことに意味があったのかもしれません、ということをちょっと考えさせられてしまったのは、この西山町が田中角栄の出身地だということを意識したからかもしれません。その角さんの記念館も、郷土資料館に隣接して建っているのですが、こちらは有料でしたので入らずに先に進むことにします。

 しばらくJR越後線に沿って県道を進んだあと(どうしてカーナビは並行する広い国道を誘導してくれないのだ?)左折して海岸に出ます。ここでようやく青空と太陽が夏を告げ、浜茶屋の前で客引きの兄ちゃん姉ちゃんが手を振ってクルマを呼び込もうとしているのを見ると、先ほどまで雲の下で気持ちまでどんよりした気分でクルマを走らせていたことを忘れてしまいますね。まぁ、だからといってここで誘いに乗って海水浴ってわけにはいきませんが。
ようやく青空が広がってきた
目的地へはもうすぐだ
 やがて道の駅『越後出雲崎天領の里』(長い名前じゃ)・・・いやね、今年もスタンプラリーやってるだろうなって思っていたから、ルート上の道の駅はチェック済みなんですよ(^^ゞ そいでもって、去年使ったスタンプブックを(一冊しか見つからなかったけど)持参してましてね・・・タダで貰える関東甲信と違って北陸地区のスタンプブックは有料だから、記念に押すだけだったら、去年のに続けてスタンプを貯めたほうがいいじゃないですか。
 ここはまぁよくあるタイプの道の駅スタイルで、土産物屋も冷やかせる。立派な資料館もあるけど、なにより日本海。水辺に出られるようになっている上に、海に突き出た桟橋のような展望台(観光ブリッジ・夕凪の橋と呼ぶんだそうな)もある。何かの縁起かつぎかおまじないか、手すりには鎖やワイヤーが南京錠でいっぱいくくりつけられていて、そういえばどこかの灯台でもフェンスに南京錠がたくさんくっつけられているところがあったっけ。
 小さな子が波打ち際で遊んでいる姿を見ると、颯たちも我慢ができなくなって靴を脱いで足を水に浸してみる・・・のはいいんだけど、そのあと砂だらけになった足でクルマに乗ろうとするなよ。靴も海水で濡れたのか、帰る日には車内に異様な臭いが漂っていたぞぉ!

 ところで、出雲崎と聞いて思い出すのは良寛さんであります。実際、西山ICを降りてからこの先の和島や寺泊・分水まで、土産物や商店の名前、名所旧跡の案内看板など、やたら良寛さんの名前を目にするのでありますが、良寛さんって何をした人なんだろう? 知名度は抜群なんだけど、どうして有名なのかが判らないんですね(ひょっとして、それって父ちゃんだけ?)。知っているエピソードといえば、子ども好きでよく一緒に遊んだとか、かくれんぼをしているうちに子供たちが夕方になって家に帰ったのも知らずに「もういいかい?」と探し続けたとか、あるいは庵の床下から筍が生えてきたのを見つけて頭がつかえないように庵の天井を焼いて穴を開けようとしたら火事になってしまったとか、なんかこう浮世離れした人物のイメージしかないんですね。
 今回新潟に行く前の週に群馬県の東村(勢多郡)でキャンプをしたんだけども、その村に『良寛書の館』というのがあったので、てっきり良寛さんは全国を歩いて何かしていったのかなと思ったら、どうもそれは個人のコレクションを公開しているようで、基本的に良寛さんというのは地元を托鉢して回った程度らしい。
 ということを知ったのは『西山ふるさと公苑』の資料館にあった「長編アニメ『良寛さん』上映会」のチラシを貰ってきたからなんだけども、これを見て思ったのは、ある意味では良寛さんというのは「何もしなかった」人なんじゃないかなということ。何もしないという言い方は誤解を招くかもしれないけど、大それたことをするわけでなく静かに人として自然に振舞った、という意味でね。このチラシを手にした町が、対照的な人物の出身地ということを踏まえて、そんな気がしたってわけだ。
 ともあれ、良寛さん=子ども好き、という固定観念と、出雲崎=紙風船の産地、という知識がダブって良寛さんが子どもたちと紙風船で遊んでいる姿がイメージとして脳裏にあるのだけど、これは手まりで遊んでいる図を間違って記憶していたのだと今回気がついたってわけでした。
(良寛さんの生涯について、こんなウェブサイトを見つけました)

 なぁんてことを考えながら海辺を走っていると目的地への期待が高まってきます。と、唐突に目の前にキャンプ場の案内看板が現れ、あわてて右にハンドルを切って坂道を丘の上へ・・・

 この調子で2泊3日の旅行記を綴ってゆくとスクロールするのが大変になりそうなので、章を改めることにします。