旧大政商店・本庄支店

 
高校の文化祭の帰り道、電車まで少し時間があったので
橋上駅の北口に降りてみました
かつてはこちら側だけに駅舎があり、改札を出たら
歩道橋を使うか、この先の踏切を渡るかして南側の高校に通っていたのです

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ああ、まだ建っていたんだ

31年前の当時でさえ、充分古めかしかった煉瓦造りの建物
今もしっかりと残っており
これを見てようやく高校時代の自分を思い出せるような、そんな気がしました


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大学を出て社会人になり、藤森照信さんの建築探偵ものの著作の影響を受け
近代建築に興味を持った時期があるのですが
その頃読んだ『近代建築ガイドブック 』にこの家が載っていて
学術的価値がある建物だったのだとビックリしたものです

旧大政商店ということですが
これが何をやっている会社だったのか
そしてどういういきさつで民家になっているのか
そういった事情はちっとも判りません
ひとつだけ知っていたのは
この家の主(あるじ)が、件の高校の教師でした (^^ゝ
  たぶんワタクシの担任ではなかったはずですが...


これまでにも何度か書いていますが
ワタクシ、埼玉に住む前は佐賀県の田舎町に住んでおりました
それ以前には福岡市に住んでおりまして
小学校4年生があと一週間で終わるという日に佐賀県に引っ越してきて
転校した学校でカルチャーショックを受けるわけです

 ・小学校なのに制服がある(男児は黒の学生服、女児はスモックのようなセーラー服)
 ・給食が先割れスプーンではなく箸(今はこっち方が文化的ですけどね)
 ・学級委員のことを「級長」と呼ぶ(古い本や両親の思い出話で聞いただけだった)

子供心に「何という田舎に来たもんだ!」と思ったものですが
そこで6年ほど過ごした後に、今度は埼玉に引っ越すことになったわけです
すると近所の、以前埼玉に住んでいたという奥さんが
「埼玉は田舎ですから、大変ですよ」みたいなことを言うわけです
そんなことはないだろう、埼玉と言えば首都・東京の隣ですよ
社会科の時間でも「衛星都市」とか「ベッドタウン」という言葉を習ったし
教科書にも綺麗な住宅やら団地が並ぶ写真が載っているではありませんか

そういう思いで埼玉にやってきたのが高校2年の新学期
転校した先は県立高校で、いちおう詰襟とセーラー服の制服はありましたが
着用の強制はなく、バッチさえつけていれば私服で通学してもいいという学校でした
「さすが埼玉、なんて自由な校風なんだ」
と感動したのですねどねぇ…ここに登場したのが例の先生なんですよ
埼玉は佐賀の田舎町よりも都会だと思っているワタクシや生徒を前に講義を進め
その言葉の最後に

「…だんべ」

これを皮切りに、あの奥さんの言葉を裏付けるようなことが
次々と起こってゆくのでした
まだ「ダ埼玉」という言葉がブームになる以前のことでございます