いま 生きているということ
前回の記事で
小室等さんの「いま 生きているということ」という歌は
もともと谷川俊太郎さんのそういう詩があったのではなく
「生きる」という詩が下敷きになっている?
ということを書きました
発表以来30年も経ってから知るという無知蒙昧ぶりが
『ういろー・ざ・わーるど』たる所以なのですが (^^ゞ
まぁ、それはともかくとして
「谷川俊太郎、生きる」というキーワードが
やけに多くネット上を行き交っているということに気づきました
えっ? どうして?
調べたら、昨年、この「生きる」という詩をモチーフにした
『生きる わたしたちの思い』
という本が出ていたんですね
谷川俊太郎の詩「生きる」にちなんで、それぞれの「生きる」をつなげてひとつの詩をつくる。『mixi』の谷川俊太郎コミュニティの投稿から生まれた、泣きたくなるほど優しい本。谷川俊太郎と投稿者らの座談会も収録。
それで話題になっているところに
まったく別方向からのアプローチで偶然たどり着き
「へぇ、そうなの?」とやっているわけですから
自分でも呑気な奴だなぁと呆れてしまいます
そういうわけで「生きる」はあちこちで紹介されているでしょうから
「いま 生きていること」を紹介します
いま 生きているということ
詞・谷川俊太郎/曲・小室等
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
おこれるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いまどこかで兵士は傷つくということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで星は流れ
いまどこかで虹が立ち
いまどこかで火は燃えること
いまどこかで火は燃えること
いま生きているということ
いまだれかが旅立つということ
いまだれかがだれかをみつめ
いまだれかが決意すること
いまだれかが問いかけて
いまぼくらは歌うこと
いまぼくらは歌うこと
いまぼくらはぼくらはぼくらは歌うこと
いま生きているということ
いま地球が廻っているということ
いまナイフはきらめくということ
いま子兎が跳ね鯨はまどろみ
いま種子はまかれ石は彫られ
いまぶらんこがゆれていること
いまぶらんこがゆれていること
いまぶらんこがゆれていること
ぶらんこはぼくが作ったぶらんこ
ぶらんこには娘がのっている
いまぶらんこがゆれていること
生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
夜はあけるということ
風が立つこと
静けさということ
生きているということ
いま…いまが過ぎてゆくこと
いま…いまが過ぎてゆくこと
いま…いまが過ぎてゆくこと
生きているということ
いま 生きているということ
人は愛するということ
あなたの手のぬく
いのちということ
一段下げて書いた部分は歌詞カードには載っていません
前回書いたように、単に同じ語句を繰り返しただけのアドリブらしいものもありますが
ブランコに娘が乗ってるいるという言葉はどこからでてきたのでしょうか?
そして、この部分の妙なリアリティが30年もワタクシの心を捉えて離さないのです
たとえこの部分も谷川さんが作ったのだとしても
この部分があることによって、これは谷川さんの詩ではなく小室さんの歌なのだ
そんな気がします
1981年の11月、プロ野球南海ホークスの景浦選手は
第一子の出産を40日後に控えた奥さんに誘われて
小室等さんのコンサートを聴きに行きます
実は、奥さんは10年前に小室さんに憧れる「追っかけ」だったらしいのですが
ステージの上から二人を見つけた小室さんは、プレゼントに一曲歌います
...って、水島新司さんの漫画『あぶさん』のストーリーなんですけどね
そのときの歌がこれなんですよ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
命ということ
不思議ですねぇ...『あぶさん』の古い巻は実家に置いてあるのですが
たまたまこの28巻は一昨日に娘が借りて持って来ていたのですよ
というわけで一ページを紹介することができました
「無題」「ユイ・コムロ」そしてこの歌が
ワタクシの好きな小室さんの歌、ベストスリーなのです
谷川さん自身による「生きる」の朗読はこちら⇒『ほぼ日刊イトイ新聞(2002.9.27)』