私観・喪中はがきの意味

やっとかめさんが、ご自分のブログで『喪中はがきの意味』という記事を書き
これがなかなか興味深い内容だったのですが
コメントをつけるには、なんだか本文より長くなってしまいそうなんで
自分の記事として書いてみます

喪中はがき(年賀欠礼)を語る前に、そもそも年賀状ってなんだろう?
少なくともワタクシにとっては「新しい年を寿ぐもの」という感覚はありません
知人友人に対する「近況報告」のひとつだと感じています
若い頃は仲良く酒を飲み交わしていても
住まいや仕事、家族とのかかわりが変化するにつれ
だんだん疎遠になって、それでも年賀状の交換だけは続けている
そんな友人がいるものです
彼らとは年賀状だけが「近況報告」というより互いの「生存確認」みたいなものです
若い頃はそうでもなかったけど
最近は「途切れさせたくない」気持ちがあるのですね
  なかには「もう今年限りでいいんじゃないか」というのもあるけど

実は年賀欠礼にはそれほど宗教的な意味はありません
浄土真宗では「年賀状を出す方向で考えるべき」とさえ言ったりしてます
とはいえ、身近な人を失って悲しんだり淋しく思っている気持ちは
宗教とは別にあるものですし、そういう気持ちは尊重しなければなりません

だから、そっとしておいてあげるか、慰み励ましてあげるか
それとも何も知らずに毎年の「生存確認」をするか...

>正直な話、私は喪中はがきを出さなくて良かったと思いましたよ。
>出していれば、その年はたぶん年賀状は1枚も来なかったでしょうね。
>ただでさえ父が亡くなって寂しい正月が、さらに寂しくなるというものです

やっとかめさんのこの文章にはとても共鳴します
何も知らない旧友から「おめでとう」と書かれた年賀状が届いても
力づけられこそすれ、何を能天気なこと書いてるんだなんて恨みませんよ

ワタクシも、やっとかめさんのように年賀状をもらっておいてから
こちらからは寒中見舞いという形で近況報告をするというのが
ひとつの理想なのです…でも

あとから知らされた友人たちの中には
「知らなかったこととはいえ、喪中の家に年賀状を出してしまった」と
恐縮するものがいるかもしれません…そうだったら心苦しい

だからやっぱり世間的に年内に年賀欠礼を出すのが無難なんでしょうよ
それがこちらからの近況報告ですから
  読めば判りますが、やっとかめさんの場合は
  あえて年内に出さなかった理由が別にあるのです

そして、受け取った方はすぐに折り返し手紙を書くとか
一呼吸置いて寒中見舞いという形で年賀状代わりの近況報告をよこす
…これが正しいマナーだと思います
でも、判っているけど、それができないからこそ
せめて年に一度の年賀状だけで近況報告している筆不精なわけなんです
そして、この年に一度の近況報告が途切れてしまうのが淋しいのです
  結婚すれば親が4人です
  不謹慎な言い方ですが、続く事だってあるでしょう
  2年も3年も途切れたら、それが縁の切れ目になるかもしれません

…どうも考えがうまくまとまらなくって
書いていながら、本心を書ききれてないような気もします
やっぱりコメントにしなくてよかったな


スーパーのサービスカウンターにある「年賀状印刷承ります」チラシを見ていたら
最近はずいぶんとモダンな年賀欠礼があるんですね
ハガキを横に使ったり、テディベアのイラストがあしらわれていたり

冠婚葬祭のマナーを書いた本やウェブサイトでは
「近況や個人的なメッセージ等は書き添えません」と書いてあるけど
これからは変わってゆくのかもしれません
特別な事情の人だけが出せるグリーティングカードとして

そうなると、ここに書いたことが杞憂になってしまい
なんて莫迦なことを大袈裟に考えていたんだ
そう思える日が来るのかもしれません

来て欲しいと思っています