人に歴史あり
(前の記事からの続きです)
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『上大岡的音楽生活』というブログの
「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」と題された記事でした(2008年8月5日)
筆者が叔父さんと亡くなった祖父の思い出を話していて
第二次大戦中に疎開していた叔父を訪ねようとして
祖父(叔父さんから見れば父親ですね)が乗った列車が米軍機の襲撃を受け
犠牲者の返り血を浴びて血まみれになった衣服で来たことがあったと知るのです
生前、祖父の口から詳しく語られたことのなかった出来事に筆者は驚き
その事件について調べ、当時の祖父に思いを馳せるという
ブログ記事としては非常に長く、しかし、読み応えのある重みのある内容でした
その事件とは...
湯の花トンネル列車銃撃事件(いのはなトンネルれっしゃじゅうげきじけん):第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現、八王子市裏高尾町)内の国鉄中央本線、湯の花トンネルで、アメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。(ウィペディア・フリー百科事典より)
死者は52名とも65名とも言われており(負傷者は130名以上)
米軍の列車攻撃の中でも最悪の人的被害を出したのがこの事件だったそうです
この記事を書くにあたり
傍証を求めて筆者は多くの資料を探したのでしょう
そのひとつに宇治正美さんの文章があったのです
つまり、宇治さんもまたこの事件に遭遇した一人だったということになります
筆者のおじいさんは幸運にも銃弾で眼鏡と腕時計を弾き飛ばされただけで済みましたが
向かいに座っていた赤ちゃんを背負った母親は
その赤ちゃんの頭に銃弾が当たり、赤ちゃんは頭部を失ったというのです
一方、宇治さんもまた
側に立っていた乗客が打ち抜かれた頭から吹きだす血しぶきを浴びながら
床に伏せて九死に一生を得たのでした
やがて地元住民などが駆けつけて負傷者の救出や遺体の搬出などがおこなわれ
それが一段落つくと、助かった乗客たちの中には、諦めて引き返す人もいたけど
そのまま目的地へ向かうというという人たちもいて
小仏峠を越えるか線路伝いに小仏トンネルをくぐってゆくなどして
折り返し運転で列車が動いている与瀬駅(今の相模湖駅)に向かったそうです
筆者のおじいさんや宇治さんは歩いて4時間かかる峠越えルートを選んだようですが
暗いトンネルよりも、空が見える峠道の方が気分的に楽だったのでしょう
たとえ先ほどまで米軍機が飛んでいた空であっても
小仏の道は狭く、急だった。乗客たちは、ひたすらに道を急ぐ。先を争う習慣が、当時の日本中にあった。古田と僕は、皆におくれて、ゆっくりと峠を登る。夏の林の、独特の草いきれが心地よかった。(「大根とワンタンをめぐるメモ」宇治正美)
この事件の現場は、中央高速と圏央道の八王子ジャンクションのあたりです
ブログに載っていた写真を見ると、中央道下り線のループの下ですね
去年は正月と9月にここをクルマで走ったんだなぁ
つい先日、高尾山ケーブルカーの山上駅から眼下に見えていたあの場所です
多くの観光客は反対側から都心方面を見るのに夢中ですが
ワタクシは、いかにも「山の中」というこの風景も好きなのです
あそこでかつてこのような惨劇があったことを初めて知り
たまたま本を読み返した宇治正美さんへの興味からこのような事件の記録にたどり着き
それがワタクシがいつも興味を持って眺めているあの風景の場所であることに
こじつけかもしれないけれど、奇縁を感じたのでした
それにしても、ここに引用されていた宇治さんの著作は、どんな本だったのでしょうね
題名と内容のギャップにそそられます
ちょっと読んでみたい気もするのですが、ネット上では手がかりが見つかりません
いつごろ出された本なのか、出版社さえ判りません
あ、『そば仕込帖』にはこのような戦争体験を感じさせる記述は微塵もありません
この発見で宇治さんの年齢を窺い知ることができたくらいですから
あの本には蕎麦好きのお医者さんがいるだけです
これはまったくの想像ですが
宇治さんもまた『大根とワンタンをめぐるメモ』に記録として書き残しただけで
終生多くを語らずにいたのかもしれません
事件から年月を経て書いたのでしょうが
「夏の林の、独特の草いきれが心地よかった」というくだりに
ワタクシはいろんな解釈をしてしまったのでした
コメント
kume
戦争中には多治見駅でも米軍機による
列車襲撃があって犠牲者が出ています
古い駅舎の頃には陸橋の窓枠のところに
銃撃の跡が残っていましたが
その駅舎も壊されて今は新しい駅舎が立っています
そんな事を知る人もだんだんいなくなってしまうのでしょう
まつお
▽kumeさん
「風化させてはならぬ」「次代に語り継がねばならぬ」
ならぬならぬと言いますが、惨状を目の当たりに体験した人にとっては
思い出したくもない、忘れてしまいたい記憶なのかもしれません
記録と記憶...ちょっと考えてしまいました