ママはフォークシンガーだった・考

 

『追懐』に「ママはフォークシンガーだった」が収録されています

最近、この歌を伊勢正三さんが取り上げ、各地のコンサートやイベントで歌ったり
CD化して販売されるようになっているとかで
だいぶ世に知られるようになっているらしいです
  ということをワタクシは知りませんでした (^^ゞ

系譜をたどると
もともとはきたやまおさむさん(詞)と長谷川きよしさん(曲)が作った歌で
長谷川きよしさんご自身や杉田二郎さんがライブ会場で歌っていただけだったのを
10年前、松崎博彦さんがCDを制作する際に収録したのが
音盤として残ることになった最初だといいます

   ママはフォークシンガーだった 20年前は唄ってた。
   歌わずにいられない、ただ、それだけだった
   でも、いつの間にか やめていたと言う。

松崎さんがCD化してからでさえ10年経っています
最初にこの歌が作られたのは、30年くらい前だということなのですが
そのときの詞が「20年前は...」なのです
50年前にはまだ所謂フォークシンガーはいませんでしたよ

それで思うのですが、この歌が作られた30年前ではなく
CD化された10年前のほうがむしろ「歌わずにはいられない」歌だったのではないか

ここ数年、団塊世代が暇を持ち始めたこととも相まって
フォークソングが再び日の目を見るというか復権してきています
そして、そういう状況になればなるほど
「ママはフォークシンガーだった」という歌にこめられた思いが
高まってくるように思うのです

   ママの熱い歌声が、街中に響く時 若者たちは、胸ときめかせた
   ねぇママ、もう一度ギターを弾いて ねぇママ、もう一度唄っておくれ

なんだか、この歌はきたやまさんが仕掛けたタイムカプセルのような気がしてきました
フォークが復権する時代に、それを切望する声として
作った時点ではなく、未来に歌ってもらいたい歌だったのかな...
ワタクシが勝手に読んでいるだけかもしれませんけどね(苦笑)

いずれにしても、この歌が埋もれて消えてしまわぬよう
歌い続けてきた人の功績に感謝しなくてはいけません


ところで、この「ママ」って誰でしょうね?

詞を作ったときのきたやまさんの頭の中には特定の人のイメージがあったと思いますし
じっさい、ある人の名前を聞いてもいます
でも、出来上がった作品としては、特定の人を指す必要はない仕上がりですね
だいいちワタクシの解釈では、この歌の主体である「僕」と
親子である必要さえないのです

   僕は今でも覚えているよ ママと唄ったあの子守唄なら

これは実の親子に見せかけている「偽装」です(笑)
だいいち、本当の子供だったら「ママと唄う」のではなく
「ママに唄ってもらう」のではないでしょうか
だから、歌詞としては「ママが唄った」の方が自然に思うのです

ほら、グループや、ムーブメントのリーダー的立場の人を
「ママ」や「パパ」と呼ぶことがあるじゃないですか...「建国の父」は大袈裟だけど
この歌に登場する「ママ」や、2番に出てくるギタリストの「パパ」も
カリスマ的存在の「誰か」であるかもしれません
特定の「あの人」かもしれないし、イメージとしての「誰か」であるかもしれない
だから「僕」だって血のつながった子供ではなく
感化された同時代の人々かもしれない
...だいたい、フォークを始めた連中だって「ガスリー・チルドレン」なんだから

実は、日曜日に聞いたハナシなのですが
きたやまさんのオリジナルの詞には一ヶ所だけ
「ママ」ではなく「彼女」と第三者的に呼んでいる部分があったらしいのです
松崎さんは、ある人の「不整合ではないか?」との指摘を受けて
「ママ」に統一しているそうですし、特にきたやまさんのクレームもないみたいですから
まぁそれはそれで、その解釈も「あり」なんでしょう
  ちなみに、伊勢さんは原詞通りに歌っているらしい

そんなことを考えながら、あらためてこの歌を聴きなおすと
胸に迫ってくるものを感じます

「長谷川きよしさんが歌ったものは凄いよ。鬼気迫るものがある
 ...ウチのどこかにビデオがあったと思うなぁ。今度探してみよう」(平井・談)

作った当事者の片割れとはいえ
30年前にもうそれだけの思いをこめて歌えたとは...


今年、松崎博彦さんはすべてのライブ会場で
この「ママはフォークシンガーだった」を唄っているそうです
「戦争を知らない子供たち´83」のフルバージョンといい
彼は大事な歌をワタクシたちに伝えてくれています