メッセージ・フロム・京都

 



昨年亡くなった磯群正志クンに関連して書きたいことがあり
補完資料を探していたら、昔書いた文章が出てきました
読み返してみると文章には青臭いところがあって
気恥ずかしいこと甚だしいのですが
それなりに面白味もあったので
予定を変更して、この文章をそのまま載せてしまいます(笑)

長いのでご注意ください



 京都という街に一種独特の憧れを持っている。なんて言うと「へぇ、マツオさんも意外と月並みな趣味なんですネ」と言われるだろうな。でも、僕だって舞妓はんや金閣銀閣にあこがれているわけではないのであって、京都は青春の街であるという思い込みがあって、そこに魅力を感じているのだ。
 日本の夜明けを見つめて歩いた幕末の志士たち、シュトルム・ウント・ドランクの「紅燃ゆる」三高生、日本の国はどうなるのだろうと歌った関西フォークの中から高石友也(この人、北海道出身の立教大学生なのだが)、フォーク・クルセダースが現れ、エレキを使ったバンドの中からはザ・タイガースが登場する(タイガースのヒットしなかった曲を聞くと、フォーク調の実にいい歌が多いのに驚いてしまう)。更に時代がくだってフォークが妙に洗練され東京ペースのニューミュージックというものに変節してくると、高石ともやがザ・ナターシャーセブンというフォークグループを結成して、歌の楽しさ面白さを追求して帰ってくるし、それらの流れとは8割方無関係に「ワシはブルースを歌うしかないもんね」とひたすらウナッているヤツやら、ワケのわからん文学論を口から泡を吹きながらワメくヤツ、あくまで革命を目指し夜な夜な鉄パイプをみがいているヤツ、人生に挫折して(といっても失恋か受験失敗程度)伝統工芸の修業で心の平安を願っているヤツ、深刻ぶるヤツ、楽天家のヤツ、ヤツ、ヤツ、ヤツがそれぞれに青春のエネルギーの念射をしているのを平然と包み込んで古都然として落ち着いたたたずまいを見せている街、それが京都だと思うのだ。
 実際の京都がはたしてこうなのかはよく知らないが、僕の心の中では京都は確かにこんな街であって、大変に魅力的な街なのだ。
 余談になるが、京都をテーマにした歌が数ある中で目下のところ僕が一番好きなのが前出のナターシャーセブンが歌っている「街」という歌だ。この歌は1975年11月、京都市民祭りのテーマソングになり、1978年8月、全日本ユースラリー京都大会のテーマソングにもなるという「まごうかたなき京都の歌」なのだ。
 ところがこの歌には京都の具体的な地名やら建物の名称が一切全然まるっきり出てこないのだ。で、たとえば「この歌は長崎の街を歌ったものです」とか「博多の筥崎宮のあたり(九州大学がある)」言っても通用してしまうのだ。たまたま自分が知っている街の例でやってしまったが、ほかにも歌詞の一部を変えればさらにあてはまる街が出てきそうで、事実あちこちのユースホステルではそうやってこの歌をご当地ソングに作り変えているとも聞いたことがある。
 それなのに、この歌はやはり京都の歌としてその第一印象がわいてくるわけで、それがつまり僕が思っている「京都は青春を象徴する街なのだ」ということではないかと思う。
 だがそれにしても地名やら名所がひとつもおりこまれていない歌を市民祭りのテーマにしてしまうとは、京都市民もたいした度量であると思ってしまうのだが、市民祭りだもんね、観光ガイドソングじゃないもんね。(とは言うものの、やたら郷土の誇りを高らかにうたいあげたがる国民だからな、我が同胞は。やはり立派なことなのだ、これは)
 そんでもって、その京都の青春のごった煮的状況の底辺を支える、というよりも本人は「支える」なんて意識は全然ないのに違いなく、ただ単にそれ以上成り上がれもせずコケもせずという位置としての認識なんだろうが、という友人に磯群正志というのがいて、こやつは何をやっているかと言えば詩を書いていて、時おり自費出版で出す詩集を売りつけさえしなければいいやつなんだが、という男である。(これまですべてタダで貰っている僕は、もちろん彼を「いいやつ」と評価している)
 で、この男が詩集を出すときは『どらねこ工房』というアマチュア出版社(というような紹介を、かつて朝日新聞がやっていた。弱視者用の辞書を出版しようとして資金不足に悩んでいたときのことだ)から出していたのだが、去年あたり何を血迷ったか一般の流通経路を通して紀伊国屋でも買える本を出すぞとワメきだし、我々も一応仲間として「お、ガンバレ、ガンバレ」と口先で応援し、実のところあまり気にもとめておかなかったのが、虚仮の一年というものは恐ろしいもので今年になって出版が本決まりであるという情報が入ってきた。4月になるとさらに詳しい情報、といっても本人の口から聞いた話で、発行日が4月15日、定価が1800円、内容の一部として関係者の奇怪な行状を暴露した一文があるというので関係者一堂パニックに陥ってしまった。これはもう借金してでも買い占めてガソリンをぶっかけて火をつけねばと考えたりもしたものだ。それにしても1800円という値段は何とかならんか...

(1983年5月)


駄文はまだまだ続くのですが
引き写しはこれくらいにしておきます
まだワープロが1台600万円もした頃(大卒の初任給が10万円くらい?)
手書きで原稿を書いて、コンビニでコピーして作った冊子を
当時10数人の友人に送りつけていたのです

読んでお分かりの通り
磯群クンの『ジャーマンポテトを食べた日の朝』
という詩集の出版にあわせて書いた文章で
個々の詩についての感想やらポテトにまつわる話など
この号はジャーマンポテト特集号となっています
それにしても、前号の発行からわずか2週間で
20ページ余りの手書き冊子をよくぞ作ったものです

当時でさえちょいちょい会っていたり電話で話す仲ではありませんでしたが
彼はワタクシにとって大切な友人の一人だったんだなぁと
彼の訃報を受けて以来ずっと思っています

...あ、こんなしんみりした話を書くつもりじゃなかったんだ
本当に書きたかった話はこの次、ね