うた・たどりついて・うた

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 今度の日曜日、3月4日に多治見市文化会館で南修治さんのコンサートが開かれます。
 しばらく前にチラシが送られてきて、正直言って最初は「多治見じゃなぁ」と思ったのですが、だんだん行ってみたくなってきて列車の乗り継ぎや運賃などを調べてみたんですよ…でも、こちらがまごまごしているうちに予約だけで会場の定員をオーバーしてしまったようです。岩手や佐賀からも申し込みがあったそうで、埼玉から行くのを悩んでいるようじゃまだ甘いですね。

 南さんといえば、おそらく「不登校」「子育て」「カウンセラー」というキーワードと共に語られる人というのが今のイメージなのかもしれませんが、ワタクシが初めて彼の歌を聞いたときは、韓国の民主化運動に共鳴したり、原子力発電所に反対したりという歌を歌っていました。「社会に対する怒りの歌」と言ってもいいかもしれません。あ、それと大地や風の香りが漂う歌もずいぶんありました。彼自身にとって過渡期にあたったのかもしれません。

 その後、南さんの活動を知ることもなく、初めて聞いた当時のテープを何度も聞き返していたのですが、その間の彼はゴルフ場の建設に反対する人たちの間では有名な存在だったようです。今でもネット上で「南修治」「ゴルフ場」で検索するといくつもの記事がヒットします。「立ち木トラスト」という言葉も重要です。

 数年前、ふとしたことから「今の」南さんの歌に出会いました。社会に訴える歌ではなく、土を耕す歌ではなく、心を訴える歌、心を耕す歌になっていました。今の彼のコンサートで、昔から知っている歌といえば『もしも愛がぼくのもんなら』くらいです。

 でも、嬉しいのは、彼がずっと歌手でいることです。

 前にも書きましたが、主催者にとっては「教育講演会」のつもりでも、彼のスケジュール表には「コンサート」と書かれています…「コンート」と発音すれば「演説会」という意味もあるらしいと小室等さんが発言したのを聞いたことがありますが、ワタクシが持っている辞書には出ていません。というのはともかくとして、ひところ彼が「シンガー・ソング・ファーマー」と言われていた時代も含めて、常に「歌手」であり続けたこだわりが好きなのです。

 歌を作り始めて30年という節目の年に、今の自分が出来上がってきた過程を、これまでの歌をつむぐことで表現しようというコンサートが、今度の日曜日のコンサートなのです。ここで南さんは、今はもう歌わなくなった(彼の言葉を借りれば「今の僕の心ではうたうことを必要としない」「封印していた」)歌を解き放ち、自分の道のりを振り返る最初で最後のコンサートにしようとしています。
 彼は自分でこう言っています。「もしかしたら誰かの心を癒すものにはならないかもしれません。南修治の混沌とした時代は理解に苦しむ世界かもしれません。でも、うたいたいのです。たどりついて、やっぱり歌い続けようと決意したから、これまでをうたい、これからのうたの最初の一歩を表現するのです。うた・たどりついて・うた、3月4日にお会いできたらと思います」

 残念ながら「見届け人」に成り損なってしまいましたが、会場の椅子は熱心な彼の支持者や後援者に譲って正解だったかもしれません。ワタクシなんぞはまだまだ駆け出しですから。


 実は、先週の終わりに南さんとちょっとだけ会ったんですよ。といっても1、2分の立ち話ですけど(というだけでも自慢したがるのがミーハーなファンですなぁ)。風邪をひいてマスクをしておられましたが、ベストコンディションでコンサートの当日を迎えて欲しいと祈念しております。