京都⇒名古屋:1985.7.14
(東海道新幹線乗車録その4)
舞台裏を抜けて京都の街に散っていった
そしてワタクシは京都駅へ
これまで幾度となく(^^ゞ 乗った東海道新幹線で
唯一、東京駅が絡んでいないのがこの乗車なのですね
すでに東京行きが無くなる時間帯でもあったこの新幹線は
第13回・宵々山コンサートを見に行った帰りに乗ったのです
後に復活したけど、これが一応のファイナルコンサートだった
この時の話は、当時作っていた近況報告誌に書いているので
それを書き写してみます...といっても往路の話が中心だけど
◆ DEVIL'S DREAM (こないだ乗った東名拘束バス)◆
旅の楽しみはプランニングから始まる。今回の宵々山行きは名古屋でA氏と合流することになっていたから、往きはあっさりとドリーム5号、名古屋行きと決まった。この時何故か345M、例の大垣行きはまったく頭に浮かばなかった。
さて、帰りである。14日の晩、できるだけ遅くまで円山音楽堂に居たいという命題(1)と、15日の朝8時に出勤しなければならないという命題(2)を両立させなければならない。京都発のドリーム4号を使えば命題(2)がアウトになってしまう。(註:東京着が遅くなるのです)で、思いついたのが京都発22時04分の「こだま494号」で名古屋に行き、ドリーム6号につなぐというアイデア。これなら会社にも遅刻せずに済むし、ドリーム&ドリームのトクトクきっぷを使える。(実際にドリーム6号に乗ってみると、オレの後ろに座った女性も宵々山帰りだった)
A氏との合流点が木曽川の駅と決まり、名古屋からの乗り継ぎを調べるとこれが例の大垣行き。ここで初めてこの電車の存在を思い出したのだが、ドリーム号ならノンストップなので、車中ぐっすり眠れるであろうと自分のプランを正当化したのであった。だが…
23時20分、東京駅定刻発車。冷房が効きすぎているのが少し気がかりなドリーム号は首都高速へと入って行った。そしてすぐに停車。なんと渋滞にぶつかったのだ。ブルブルブル、プシュ。
にじるように進んでは停まる、進んでは停まるの繰り返し。各駅停車の比ではない、ノンストップだから眠れるだろうとはとんだ目算違いだ。とうとう霞が関のトンネルでどうにも進めなくなってしまった。
この、東京という大都会は異常だ。深夜零時をまわって、こんな大渋滞とは。トンネルの中でにっちもさっちもいかなくなって、やがてかなり密閉度の高い車内にも排気ガスが忍び込んで息苦しくなってきた。ちっとも流れない車のテールランプを見ているのも腹立たしく、オレは目を閉じた…
バスが元気に力強く走っているのに気づき、オレは目をあけた。時計を見ると東京駅を出てから1時間40分たっている。今どのあたりだろうか、窓の外に目をやると運のいいこと(?)に、過去に一度行ったことがあって知っている場所だった。アマンド―窓の下のネオンは確かにそう読めた。(東京の地理不案内な読者のために申し述べますと、アマンドのある六本木という街は、地下鉄を使いますと東京駅から15分程度で行っちゃうのですね)
まだこんなところにいるのか。悪夢だ。前方に目をやると、交通情報の電光掲示板があざ笑うかのように「用賀 事故 渋滞4km」
勝手にしてくれよ、もう。
追:ドリーム号のダイヤは相当余裕をもって組んであるとみえ、都内を抜け出すのに2時間以上かかったのにもかかわらず、名古屋にはわずか30分の遅れ。だが、とうぜん大垣行きの電車には乗り継げず、次の電車ということになったのだが、ドリーム号の冷房でとことん冷やされ、歯をガチガチ鳴らしていたオレはとりあえず駅のトイレに拘束され、やっと解放されてホームへの階段に足をかけたとき、次の電車というのもベルの響きを残して発車してしまったのだ。いいかげんにしてくれよ、まったく。
この時は帰りのバスが朝6時に東京駅に着き
上野発6時30分の高崎線で熊谷まで行って
7時32分(だったかな)のバスで会社に向かい
あらかじめロッカーに入れてあったシャツに着替えて仕事したのですが
それにしても夜行2泊、野宿1泊だったからねぇ
かなり汗臭かったのではないかと思うのです
まぁ今は夜行バスの路線も増え
京都から直接熊谷に帰ってくるバスもあるのですが
肝心の熊谷駅から仕事場に行くバスが、ない
...ううむ、もはやこれは「新幹線乗車録」ではないな(^^ゞ